――脊柱管狭窄症と言われたあとに残る違和感
「神経の通り道が狭くなっていますね」
「脊柱管狭窄症ですね」
こうした説明を受けたあと、
一度は納得したつもりになる。
画像も見せてもらい、理由も示された。
説明としては、筋が通っているように思える。
ところが、時間が経つにつれて、
どこか腑に落ちない感覚が残ることがある。
痛みやしびれは続いている。
日によって強さが違う。
朝と夜で感覚が変わる。
場所も、はっきりしない。
説明はついているのに、
身体の感覚だけが取り残されている。
そんな状態のまま日常を過ごしている人は、決して少なくない。
説明が「間違っている」とは限らない
脊柱管が狭くなっている、という所見自体を否定する話ではない。
画像上、確かに変化が見られるケースも多い。
ただし、
その説明が今出ている痛みやしびれを十分に説明しきれているかという点では、
違和感が残ることがある。
「そこが原因」と言われている場所と、
実際に感じている不調の出方が、どうも噛み合わない。
そう感じたことがあるなら、その感覚は軽視しなくてよい。
痛みやしびれは、もっと曖昧な形で現れる
実際には、
「ここが痛い」と一点を指せるケースばかりではない。
なんとなく広がっている。
奥のほうが重い。
抜けきらない感じが続いている。
こうした訴えは、
単純に「何かが挟まっている」という状態よりも、
身体全体の巡りや調整がうまくいっていない状態に近い。
画像所見が軽くても症状が強く出る人がいれば、
狭さが指摘されていても日常生活に支障が少ない人もいる。
この差を見ていくと、
「狭いから痛い」という説明だけでは足りない場面があることに気づく。
見るべきなのは「場所」よりも「状態」
不調が続いている人ほど、
問題を「場所」で捉えようとする。
腰なのか、首なのか、神経なのか。
もちろん、それを確認することは大切である。
しかし同時に、
身体全体がどのような状態にあるのかという視点も欠かせない。
呼吸は浅くなっていないか。
動きに余裕があるか。
力を抜こうとしても、抜けているか。
多くの場合、
痛みやしびれが続いている身体は、
長い時間「緩めない状態」に置かれている。
本人に強い緊張の自覚はない。
休んでいるつもりでも、
身体の内側では張りが抜けていない。
そうした状態が積み重なれば、
結果として神経の通り道が狭くなることは、
決して不自然なことではない。
「狭い」は始まりではなく、結果かもしれない
ここで、一度立ち止まって考えてみたい。
最初から神経の通り道が狭かったのか。
それとも、緩めない状態が続いた結果として狭くなったのか。
この順番をどう捉えるかによって、
不調の見え方は大きく変わる。
原因を一点に決めてしまうと、
他に起きている変化が見えにくくなることがある。
日によって変わる症状は、身体からのヒントである
冷えるとつらくなる。
疲れると強く出る。
呼吸が浅い日は、特に重い。
こうした変化は、
構造だけの問題では説明しづらい。
むしろ、
血流や呼吸、身体の使われ方と深く関係していることが多い。
症状が一定でないことは、
「分かりにくい」のではなく、
身体が状態を知らせているサインとも言える。
痛みやしびれが一定しないことは、不安材料として捉えられがちである。
しかし見方を変えると、それは身体がまだ柔軟性を失い切っていない証拠とも言える。
完全に固まってしまった状態では、変化そのものが起きにくくなる。
揺れやすいということは、状態が動いているということでもある。
その違和感は、間違いではない
説明を受けても納得しきれない。
治療を受けても、しっくりこない。
それは、
気のせいでも、わがままでもない。
多くの場合、
身体の感覚のほうが、説明より先に現実を捉えている。
違和感が残るのは、
まだ整理されていない要素があるという合図でもある。
答えを急ぐ必要はない
脊柱管狭窄症と言われたからといって、
その先の流れがすべて決まるわけではない。
今出ている痛みやしびれが、
本当に構造だけの問題なのか。
それとも、状態の問題が重なっているのか。
それを整理する前に、
結論を急ぐ必要はない。
その痛みやしびれは、
「神経の通り道が狭い」という言葉だけで、
本当に言い尽くされているだろうか。
もしどこかで引っかかりが残っているなら、
それは無視しなくてよい感覚である。
答えを出すためではなく、
今の身体の状態を知るために立ち止まる。
その選択が、
次に進むための準備になることもある。
